論文 91 祈りの進化

   
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論文 91

祈りの進化

宗教の媒体としての祈りは、以前の非宗教の独白と対話の表現から進化した。原始人の自意識到達とともに、他者意識の回避不能な当然の結果、つまり社会的反応と神認識の二元的な可能性が生じた。

最も初期の祈りの形は、神への話し掛けではなかった。その表現は、人が、ある重要な請け負い事に着手する時、友人に「幸運を祈って」と言うのに非常に似ていた。原始人は、魔法のとりこになった。運は、幸運も不運も、生活の諸事に足を踏み入れた。運の請願は、初めは独白—ちょうど、魔法提供者が声に出して考える類—であった。運を信じるこれらの者は、次に、友人や家族の協力を求め、やがて家族、または部族全体を含む何らかの形の儀式が、実行されるのであった。

亡霊と霊の概念が発展すると、請願の呼びかけは、超人に向けられるようになり、また神への意識と共に、そのような表現は、本物の祈りの水準に達した。この例証としては、あるオーストラリア部族間での原始宗教の祈りは、霊と超人的個性への信仰に先立つものであった。

インドのトダ族は今、ちょうど初期の民族が、宗教意識の時代以前にしたように、特に誰にも祈らないこの習慣を守っている。しかしながらこれは、トダ族の間の退化する宗教のこの原始の水準への逆戻りを意味している。トダ族の酪農夫である聖職者の現代の儀式は、これらの非人称的な祈りが、いかなる社会的、道徳的、もしくは精神的価値の保護、または充実に何の貢献もしていないがゆえに、宗教儀式を意味していない。

宗教以前の祈りは、メラネシア人のマナ慣習の一部であり、アフリカのピグミー族のウーダ信仰であり、北米インディアンのマニトゥーの迷信であった。アフリカのバガンダ族は、ごく最近、マナの祈りから浮上して来たところであった。この早期の進化の混乱では、人は、神—地域の、そして国家の—呪物、守札、亡霊、支配者、そして世間一般の人に祈る。

1. 原始の祈り

初期の進化的宗教の機能は、緩やかに形成しつつある欠くことのできない社会的、道徳的、精神的価値を保護し高める。宗教のこの使命は、人類によって意識的には順守されてはいないが、祈りの機能によって主に達成されている。祈りの習慣は、意図はされてはいないものの、それでもなお、より高い価値のこの保護を保証する(実現する) いかなる集団の努力、個人的かつ集合的、を示している。宗教上のすべての祭日は、祈りの保護がなければ速やかにただの休日へ戻るであろう。

最も重要なものが祈りである宗教とその媒体は、社会の一般的認識、つまり集団の承認のあるそれらの価値とのみ同盟している。したがって、原始人が、野卑な感情を満足させたり、または純然たる利己的野心を達成しようとしたとき、宗教の安らぎと祈りの援助が奪われた。もし個人が何か非社会的なものを達成しようとするならば、かれは、非宗教的魔術の援助、つまり妖術師の助けを求めることを強いられ、その結果、祈りの援助が奪われた。祈りは、したがって非常に早くから社会的発展、道徳的進歩、および精神的到達の強力な促進者になった。

しかしながら原始の心は、論理的でも、一貫してもいなかった。原始人は、物質的なものは、祈りの範疇に入らないとは理解していなかった。これらの単純な人間は、食物、避難所、雨、獲物、および他の有形財が社会福祉を高めると結論づけ、したがって、これらの物理的な恩恵のために祈り始めた。これは、祈りの歪曲となったが、それは、社会的、倫理的行動による物質目標の実現のための努力を奨励した。祈りのそのような悪用は、一民族の精神的価値の質を落とす傍ら、それでもなお直接的に経済、社会、倫理の慣習を高めた。

祈りは、最も原始の型の心における独白にすぎない。それは、初期の対話になり、急速に集団崇拝の水準に展開する。祈りは、原始宗教の魔術以前の呪文は、人間の心が、情け深い力の現実、あるいは社会的価値を高め、道徳的な理想を増大させることができる存在体の現実を認識するその段階、さらにはこれらの影響は、超人的であり、自意識の強い人間とその仲間の死すべき者の自我とは全く異なるということに気づくその水準に高めたということを意味する。それゆえ真の祈りというものは、宗教活動の媒体が人格として心に描かれるまで出現しない。

祈りは、精霊信仰とはあまり関係はないが、そのような信仰は、新興の宗教感情に平行して存在するかもしれない。幾度となく宗教と精霊信仰には、完全に別々の起源があった。

すべての祈りは、恐怖への原始の束縛を免れなかったそれらの死すべき者の場合、不健全な罪悪感、現実の、または想像上の罪への根拠のない慣習へと導くかもしれないという真の危険がある。しかし現代において、多くの者は、不徳、あるいは罪深さを企てるこの有害な思案へと導く祈りに時間を費やしそうにはない。祈りの歪みと悪用に伴う危険は、無知、迷信、結晶化、活力喪失、物質主義、狂信にある。

2. 進化する祈り

最初の祈りは、単に言葉での願望、心からの願望表現であった。次に祈りは、霊協力を達成する手段になった。次いで、有益なすべての価値の保護における宗教を補助するより高い機能に達した。

祈りと魔術の双方は、ユランチアの環境への人の適合反応の結果生まれた。しかし祈りと魔術には、この一般化された関係は別として、あまり共通点がない。祈りは、つねに祈る自我による積極的行為を示してきた。それは、つねに心的であり、時に精神的であった。魔術は、通常、操る者、つまり魔術の実行者の自我への影響をともなわずに、現実を操る試みを意味した。魔術と祈りは、各個別の起源にもかかわらず、後のそれらの発達段階においてしばしば相関的であった。魔力は、時として決まり文句から儀式と呪文を経て真の祈りの入り口への目標の上昇により高まった。祈りは、時として非常に物質的になり、ユランチアの問題解決に不可欠な努力を避けるための疑似魔術の手段に陥ってしまった。

人は、祈りは神を強制できないと分かると、次に、祈りはより一層の請願、恩恵の追求にいたった。しかし、最も真実の祈りは、実際には人とその造物主との親交である。

人が神の意志を為すという自身の捧げられた意志の代わりに物質所有物の捧げ物を用いようという点でいかなる宗教においても生贄の考えの出現が真の祈りのより高い効力を絶えず失わせる。

宗教から人格神が剥奪されるとき、その祈りは、神学と哲学の段階へと変わる。宗教の最高度の神の概念が、汎神論的な理想主義のような非人格神格の概念であるとき、それは、神秘的親交の特定の形式の基盤を提供してはいるものの、人格的かつ優れた存在との人の親交をいつも支持する本物の祈りの力にとって致命的であると分かるのである。

祈りは、人種進化の初期においては、現在にあってでさえも、実に平均的人間のその日その日の経験における自身と自身の潜在意識との交流現象である。しかし、知的に注意深く、そして精神的に進歩している個人には、人間の心の意識を超えた深層との多かれ少なかれ接触を成し遂げる領域、つまり内在する思考調整者の領域での祈りの領域もまたある。さらに、宇宙の超自然力がその受理と認識に関する真の祈り、そして、すべての人間的そして、知的な交流とは完全に異なる真の祈りには、明確に精神的局面がある。

祈りは、進化する人間の心の宗教感情の発展に大いに貢献する。それは、人格の孤立を防ぐ作用をする重大な影響力である。

祈りはまた、倫理的優秀性のより高度の宗教、つまり顕示の宗教の経験的価値の一部をも形成する人種的進化の自然の宗教に関連づけられる1手段を呈している。

3. 祈りと第2の自我

子供は、最初に言語使用を学ぶとき、誰一人として聞く者がいなくても、考え事を口に出し、言葉で考えを表現する傾向がある。子供は、創造性に富んだ想像力の夜明けと共に、想像上の仲間と話す傾向をはっきり示す。このように、芽生え始めた自我は、架空の第2の自我との親交を保持しようとする。この方法により子供は、この第2の自我が、独白を口頭の考えと願望表現とに答える疑似対話へ変換することを早くから身につける。大人の考えの多くは、心の中で会話形式で進められる。

初期で原始の祈りの形式は、現代のトダ族の反魔術的朗唱、特に誰にも向けることのない祈りに非常に似ていた。しかしそのような祈りの方法は、第2の自我の考えの登場により、意思伝達の対話型へと発展する傾向にある。第2の自我の概念は、そのうちに、神の威厳の優れた状態へと高められ、そして宗教の媒体としての祈りが現れた。この原始の祈りの型は、多くの局面と長い時代の間に知的かつ真に倫理的な祈りの段階到達に先行して発展する運命にある。

祈る必滅者の後続の世代が、自己の分身が思い描かれるに、それは、亡霊、呪物、精霊から、多神教の神、ついには唯一なる神、すなわち祈っている自我の最高の理想と最も崇高な大望を具体化する神性体へと進化する。その結果、祈りは、祈る人々の最高の価値と理想の保護における宗教の最も強力な媒体として機能する。祈りは、第2の自我を宿す瞬間から神性と天なる父の概念の登場まで営みを常に社会に適合させ、道徳的にし、精神的にしている。

信仰の簡単な祈りは、原始宗教の第2の自己の架空の象徴との古代の会話が、無限なるものの精霊との親交段階へと、またすべての知的創造の永遠の神と楽園の父の真実の意識段階へと高められてきた人間の経験における強力な進化をはっきり表している。

倫理的な祈りは、祈りの経験における超自我であるもののすべてはさておき、人の自我を向上させ、よりよい生活とより高度の達成のために自己を強めるすばらしい方法があるということが思い起こされるべきである。祈りは、人間の自我が助けのために両方向を見るように仕向ける。つまり必滅者の経験の潜在意識の貯蔵所への物質的援助の方向と、物質的領域と精霊との、つまり謎の訓戒者との接触の超意識の境界への鼓舞と導きの方向。

祈りは今までもずっと、そしてこれからもずっと人間の二重の経験、精神的方法と互いに結びついた心理学の手順、になるであろう。また祈りのこれらの2つの機能を完全に切り離すことは決してできない。

賢明な祈りは、外在的かつ個人的な神だけではなく、内在的、かつ非人格の神、すなわち内在する調整者も認識しなければならない。人は、祈るとき、楽園にいる宇宙なる父の概念を理解する努力をすべきであるのは当然である。しかし、もっとも実用的な目的のためのより効果的な方法は、ちょうど原始の心が習慣としていたように、またこの第2の自我の考えが、単なる創作から調整者の実際の臨場において人が面と向かって、言うなれば、人に内在し、生ける神の、つまり宇宙なる父のまさに存在と本質である真の、本物の、そして神の第2の自我と話すことができるように神の内在する人間の真実へと発展したということを認識するために、すぐ近くの第2の自我の概念に逆戻りすることであろう。

4. 倫理的な祈り

どんな祈りも、嘆願者が仲間よりも利己的な利益を求めるとき倫理的ではあり得ない。利己的で物質主義的な祈りは、無私で神性の愛に基づく倫理的宗教とは相容れない。そのようなすべての非倫理的な祈りは、原始の疑似魔術の段階に逆戻りし、進歩する文明と啓発された宗教に値しない。利己的な祈りは、愛情に満ちた正義に基づくすべての倫理の精神に背いている。

祈りは、決して行為の代用品になるように悪用されてはならない。すべての倫理的な祈りは、行動への刺激であり、自己超越-到達の理想主義的目標へ向けての進歩的努力への指針である。

すべての祈りにおいて公正であれ。神に依怙贔屓を、神の他の子供、あなたの友人、隣人、さらには敵よりも自分を愛することを期待してはならない。しかし、自然の、あるいは進化的宗教の祈りは、後の啓示的宗教のようには、当初は倫理的ではない。すべての祈りは、個人的であろうと共同的であろうと、自己本位であるか、または利他的であるかもしれない。すなわち祈りは、自己あるいは他者に集中されるかもしれない。祈りが祈る者のため、または、仲間のために何も求めないとき、そのような魂の態度は、真の崇拝段階に向かって行く傾向にある。自己本位な祈りは、告白と請願を伴い、しばしば物質的恩恵の要求にある。許しに対処したり、より一層の自制のための知恵を求めるとき、祈りは、いくらか倫理的である。

前進する科学的発見が、人は、法と秩序の物理的宇宙の中に生きるということを示すにつれ、非利己的な祈りの型が、強化したり癒す一方で、物質主義的祈りは、失望と幻滅をもたらす。個人、あるいは人種の幼年期は、原始的、利己的、物質的祈りによって特徴づけられる。そのようなすべての誓願は、ある程度までは、そのような祈りに対する答えに至る有力な努力と人力へと変わることなく導くという点において効果を示す。信仰の真の祈りは、そのような請願が精神的認識に値しなくとも生きる方法の増大に常に貢献する。しかし精霊的に高度な人は、そのような祈りに関する原始的、あるいは未熟な心を落胆させようとする試みに大いなる警戒を払うべきである。

心に留めておきなさい。祈りは神を変えなくとも、それは、信じ、しかも自信に満ちた期待をもって祈る者に大きく、永続する変化を頻繁にもたらす。祈りは、進化する人種の男女の大いなる心の平穏、朗らかさ、静けさ、勇気、自制、および公正な考えの原型である。

5. 祈りの社会的影響

祈りは、先祖崇拝においては先祖の理想の教化に導びく。しかし神崇拝の特徴としての祈りは、神の理念の教化に導びくのであり、そのような他の全ての営みを超越する。祈りの第2の自己の概念が、崇高で神聖になると、人の理想も単なる人間から崇高で神聖な段階へとそれに応じて高められ、また、そのようなすべての祈りの成果は、人間の性格と人格の奥深い統一の高揚である。

だが、祈りは、常に個人的でなければならないというわけではない。集団または集会礼拝は、その影響が非常に社会に役立つという点で非常に効果的である。集団が、道徳強化と精神高揚のために共同体の祈りに従事するとき、そのような献身は、集団を構成する個人に作用している。全員が、参加により善良になる。そのような一意専心の祈りは、市全体あるいは国全体でさえ援助することができる。告白、悔悟、祈りは、個人、都市、国、および全人種を強力な改革努力と勇敢な功績に至る勇ましい行為に導いてきた。

あなたが、ある友人への批評の癖に打ち勝つことを本当に望むならば、そのような態度の最速かつ最も確かな変化の達成方法は、あなたの人生で毎日その人のために祈る習慣をうち立てることである。しかし、そのような祈りの社会的影響は、主に2つの条件に依存している。

1. 祈られる人は、祈られているということを知るべきである。

2. 祈る人は、祈られている人との親密な社会的接触をもつべきである。

あらゆる宗教は、祈りの手法により、遅かれ早かれ、制度化されるようになるのである。やがて祈りは、聖職者、聖なる書、崇拝行事、儀式などのように、助けとなるもの、他の明らかに有害なものの数多くの二次的媒体を伴うようになる。

しかしより精霊的に大いに啓蒙された心は、微弱な精霊的洞察力の起動のために宗教的な象徴を切望する知力に恵まれない者に我慢強くあり、寛容でなけらばならない。強者は、弱者を軽蔑の目で見てはならない。宗教的な象徴をもたず神を意識する者は、形式や儀式を伴わない神格を崇拝し、真、美、善を敬うことを難しいと感じる者達のもつ仁慈深い奉仕の宗教的象徴を否定してはならない。祈りに満ちた崇拝においては、ほとんどの死すべき者は、それぞれの一意専心の対象-目標を思い描いている。

6. 祈りの範囲

祈りは、個人の精神力の意志と行動、それに領域の物質統括者と連係しない限り人の物理的環境に何の直接的効果も与えることはできない。祈りの請願範囲には非常に明確な限界があると同時に、そのような限界は、祈る者の信仰に等しくは当てはまらない。

祈りは、実際の、また器質性疾患治療のための方法ではないが、それは、はち切れぬばかりの健康の享受と、また精神的、感情的、神経的な数多くの病の療法に途方もなく貢献してきた。そして、実際の細菌性疾患においてでさえも、祈りは、他の治療のための手順の効力に幾度となく拍車をかけてきた。祈りは、多くの怒りっぽく不平を言う病人を忍耐の手本に変え、他のすべての人間の苦しむ者にとっての霊感へと変化させてきた。

信仰の誠実な祈りは、祈りの効力に関する科学的疑念と神の源からの助けと導きを求める遍在的衝動とを和解に至らしめることがどんなに困難であろうとも、個人的な幸福、個々の自制、社会的調和、道徳的進歩、および精神的到達の促進に強大な力であったということを決して忘れてはいけない。

祈りは、純粋に人間の習慣としてでさえ、つまり人の第2の自己との対話は、人間の心の無意識の領域に格納され保存されている人間性の予備動力の実現への最も有効な接近方法を構成している。祈りは、その宗教的意味合いとその精神的意義は別として、しっかりした心理的習わしである。ほとんどの人が、それなりに難境にあるならば、何らかの方法で何らかの助けの源に祈るということが、人間の経験の現実である。

問題の解決を神に頼むほどに怠惰であってはならないが、自身が堅く心に決め、勇敢に目前にある問題に取り組む一方で、導き支えるための知恵と精神的な強さを神に求めることを決して躊躇ってはならない。

祈りは、宗教文明の進歩と維持に不可欠の要素であり、祈る人々が、科学的事実、哲学的分別、知的誠実さ、精霊的信仰に照らしてそうするならば、社会の一層の高揚と精神的意味を与えるために現在でも偉大な貢献をする。イエスが弟子に教えたように祈りなさい—正直に、非利己的に、公正に、しかも疑わずに。

しかし、祈る者の個人の精神的経験における祈りの効力は、決してそのような崇拝者の知的な理解、哲学的な鋭い洞察力、社会水準、文化状況、または人間の他の技能によっては決まらない。信仰の祈りの心理上、精神上の付随事情は、即座で、個人的で、経験的である。被創造者が、他の俗世の全業績にかかわらず、造物主と通じ合うことができ、創造者の現実と、つまり内在する思考調整者と接触するその領域の敷居に非常に効果的に、しかも即座に接近できる手法は他にはない。

7. 神秘、恍惚、霊感

神存在い関する意識の教化方法としての神秘主義は、要するに賞賛には値するが、そのような習慣が、社会的孤立につながり、宗教的狂信に至るとき、そのような習慣は、ほぼ避難に値する。要するにあまりに頻繁に、興奮しきった神秘主義者が神の霊感として評価するそれは、神秘主義者自身の深い心の反乱である。その内在する調整者との人間の心の接触は、熱心な思索によってしばしば推進される一方で、同胞への心からの、また情愛深い奉仕によってより頻繁に助長される。

宗教の過去の時代の偉大な教師と予言者は、極端な神秘主義者ではなかった。かれらは、仲間の人間への無欲な活動により神に最もよく尽くした神を知る男女であった。イエスは、思索と祈りのために短い期間しばしば使徒達を連れ出しはしたが、ほとんどの場合、彼らを大衆との接触活動につかせていた。人の魂は、精神の滋養物と同様に精神的運動を必要とする。

宗教的歓喜は、健全な先行する事柄から生じるときは差し支えないが、しばしばそのような経験は、意味深い精霊的な特徴の顕現であるよりも純粋に感情の影響の結果である。信仰心の厚い人々は、あらゆる鮮明な心理的予感と激しい感情経験を神の顕示あるいは精霊的な意思疎通として見なしてはならない。本物の精霊的歓喜は、通常、外向きの深い静けさとほぼ完全な感情抑制を伴う。しかし、真の予言的洞察力は、超心理的予感である。そのような訪れは、疑似幻覚症状ではなく、また昏睡に類似した歓喜でもない。

人間の心は、潜在意識の高まり、もしくは超意識の刺激に敏感であるとき、霊感と呼ばれるものに対応して演じるかもしれない。いずれの場合も、意識の内容のそのような増大は、個人には多少なりとも異質に思われる。抑えきれない神秘的な熱意と激しい宗教的歓喜は、霊感の資格証明、いわゆる神の資格証明ではない。

神秘、歓喜、そして霊感に関するこれらのすべての奇妙な宗教経験の実地試験は、これらの現象が個人に起こるかどうかを観測することである。

1. より良い、一層の身体の健康を味わうこと

2. 精神生活においてより効率的に実質的に機能すること

3. より完全に、嬉々として宗教経験を社会に適合させること

4. 人間の平凡な生活の当たり前の義務を忠実に果たすとともに、より完全に日々の生活を精神的にすること

5. 真、美、善への愛を高め、それを評価すること

6. 現在認識される社会的、道徳的、倫理的、精神的価値を維持すること

7. 精神的洞察力—神-意識—を増代させること

だが祈りには、これらの例外的宗教経験との真の繋がりはない。祈りが過度に審美的になると、すなわち専ら楽園神性に美しく幸せに耽ける状態になると、それは、その社交的影響の多くを失い、その信者の神秘主義と孤立につながる傾向がある。集団の祈り、つまり共同体の精進により修正され、防げられる個人的な過剰な祈りに関連づけられるある種の危険がある。

8. 個人的経験として祈ること

原始人は、神についての何らかの明確な概念をもつずっと以前に祈る自身に気づいていたので、実に自然発生的な祈りの局面がある。原始人は、2つの異なる状況における祈りを習慣としていた。差し迫った必要にある時、かれは助けを求めようとする衝動を経験した。かれは、喜びにあるとき、喜びの衝動的表現にふけった。

祈りは、魔術の進化ではない。両者は、それぞれ独自に起こった。魔術は、神格を状況に調整する試みであった。祈りは、神格の意志に人格を調整する努力である。真の祈りは、道徳的、宗教的である。魔術は、いずれでもでない。

祈りは、確立された風習になるかもしれない。他のものが祈るので多くのものが祈る。他のものは、さらに自己の定期的嘆願を申し出なければ何か恐ろしいことが起こるかもしれないと恐れるので祈る。

祈りは、一部の個人にとり謝意の穏やかな表現である。他のものにとっては、称賛の集団表現、すなわち社会的専心である。真の祈りは、生物の精神的本質と創造者の霊のあらゆる場所への臨場との誠実かつ信頼の意思疎通であるとはいえ、他者の宗教の摸倣が時としてある。

祈りは神-意識の自然発生的な表現か、もしくは神学の常套手段の無意味な暗唱であるかもしれない。それは、神を知る魂の有頂天の称賛、もしくは恐怖に苦しめられる人間の奴隷的従順であるかもしれない。祈りは、時に精神的渇望の哀れな表現であり、時に敬虔な句のあからさまな叫びである。祈りは、楽しげな称賛か許しへの謙虚な請願であるかもしれない。

祈りは、不可能なものへの子供じみた嘆願、もしくは道徳的な成長と精神的な力のための分別のある懇願であるかもしれない。請願は、日々の糧のためかもしれず、または神を見つけその意志をするための心からの切望を具体化するかもしれない。それは、完全に利己的な要求か、あるいは寡欲な兄弟愛の実現に向けての本当の、しかも崇高な意志表示であるかもしれない。

祈りは、復讐への憤りの叫びか、1人の敵への慈悲による仲裁であるかもしれない。それは、神を変える希望の表現か、自我を変える力強い方法であるかもしれない。それは、おそらくは厳しい裁判官の前の迷える罪人のへつらいの嘆願か、生きており慈悲深い天なる神の解放された息子の楽しい表現であるかもしれない。

現代人は、純粋に個人的な方法で神と話し合うという考えに当惑する。多くのものが、習慣的な祈りを放棄した。異常な苦難の下で—非常時に—祈るだけである。人は、神への話しかけを恐れるべきではないが、精霊的な子供だけが、神を説得することを引き受けたり、または敢えて神を変えようとしたであろう。

しかしながら、真の祈りは、現実に到達する。どんな鳥も、広げた翼の力を用いない限り、気流が上昇するときにさえ、高く昇ることはできない。祈りは、宇宙の上昇する精神面の流れの利用による進歩の方法であるがゆえに人を高めるのである。

本物の祈りは、精神的発達に加え、態度を修正し、神性との親交から来る満足感をもたらす。それは、神-意識の自然発生的な迸りである。

神は、真実の一層の顕示、美への高められた感謝、善の増大された概念を人に与えて人の祈りに答える。祈りは、主観的意志表示であるが、人間の経験の精神的段階において強力な客観的現実と接する。それは、人間が、超人的価値に向けて意味ある手を差し伸べることである。それは、最も強力な精神的発達の刺激である。

言葉は、祈りとは無関係である。それは、単に精神的な懇願の川がたまたま流れるかもしれない知的な水路である。祈りの言葉の価値は、純粋に個人的専心における自己への提示であり、集団的専心における社会への提示である。神は、言葉にではなく魂の態度に答える。

祈りは、闘争からの逃避手段ではなく、むしろまさに目前の対立をからの成長への刺激である。事物のためにではなく、価値のためにだけ祈りなさい。満足のためにではなく、成長のために。

9. 効果的な祈りの条件

人は、有効な祈りに従事するつもりならば、有力な請願の規則を心に留めておくべきである。

1. 人は、宇宙現実の問題に真摯に勇敢に立ち向かうことにより力強い祈り手としての資格を得なければならない。ひとは、宇宙的持久力を持たなければならない。

2. 人は、人間の可能性を人間段階での整のために正当に使い果たしたのであろう。人は勤勉であったにちがいない。

3. 人は、心の願望すべてと魂の渇望すべてを精霊的な成長を変換的な受容に明け渡さなければならない。人は、意味の充実と価値の向上を経験したのであろう。

4. 人は、心から神の意志の選択をしなければならない。優柔不断の膠着状態を取り除かなければならない。

5. 人は、父の意志を認識しそれを行動に移すことを選ぶだけでなく、実際の父の意志をなすことへの無条件の献身、また活力に満ちた専心をもたらした。

6. 人の祈りは、楽園上昇—神の完全性の到達—において行きあたる人間特有の問題を解決する神の叡智へのみ導かれるであろう。

7. また人には、信仰—生ける信仰—がなければならない。

[ユランチアの中間者の首長による提示]

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