論文 147 エルサレムへの中途訪問

   
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論文 147

エルサレムへの中途訪問

イエスと使徒は、3月17日、水曜日、カペルナムに到着し、エルサレムに向けて発つ前に、ベスサイダ本部で2 週間を過ごした。この2 週間、イエスは、父の仕事に関し丘で多くの時間を一人で過す間、使徒は海辺で人々に教えた。イエスは、この期間中、ジェームスとヨハネ・ゼベダイオスを同伴してティベリアスへ2 度秘密の旅行をし、そこで信者達に会い、王国の福音を教えた。

ヘロデの屋敷の多くの者は、イエスを信じ、これらの会合に参加した。イエスに対するこの支配者の敵意を和らげるのを助けたのは、ヘロデの表向きの家族のこれらの信者の影響であった。ティベリアスのこれらの信者は、イエスが宣言した「王国」が、政治上の思惑ではなく、自然で精霊的なものであるとヘロデに詳細に説明した。ヘロデは、むしろ一家のこれらの者を信じていたので、イエスの教えや治療に関係する報告が広く行き渡ることに不必要な心配を受け入れようとしなかった。かれは、癒す者、または宗教教師としてのイエスの仕事に対して意義はなかった。多くのヘロデの顧問官や、ヘロデ自身でさえ、好意ある態度であったにもかかわらず、エルサレムの宗教指導者達に非常に影響を受け、イエスとその使徒に対し痛烈で威嚇的な敵であり続け、また後には彼らの公の活動を妨げる多くのことをしたヘロデの部下の一集団がいた。イエスにとっての最大の危険は、ヘロデではなく、エルサレムの宗教指導者達であった。イエスと使徒がかなりの時間を過ごし、公への説教の大部分をエルサレムやユダヤでよりも、むしろガリラヤでしたというのはまさしくこの理由によるのであった。

1. 百人隊長の下僕

彼らが過ぎ越し祭りの祝宴にエルサレムに行く準備をしていた前日、カペルナムに駐屯するローマ人の護衛、百人隊長、すなわち兵隊長であるマングスは、会堂の支配者達のところへ赴き「私の忠実なしもべが病気になり、死の寸前なので、代理でイエスの元に行き、使用人を癒すよう頼んでくれますか。」と言った。ローマの隊長は、ユダヤ人指導者達ならイエスにより幅が利くと思ったのでこうした。そこで長老達がイエスに会いに行き、代弁者が言った。「師よ、カペルナムに行き、ローマの百人隊長の気に入りの使用人を救ってくださるように、我々は、切にお願いいたします、隊長は、非常に我が国を思ってくれ、その上、あなたが何回となく話しをした他でもないあの会堂さえ建てましたので、あなたの注目を得るに値するのです。」

イエスは話を聞くと、「一緒に行こう。」と、言った。百人隊長の家に一緒に行き、彼らが庭に入る前に、このローマ軍人は、イエスを迎えるために友人達を行かせ、次のことを告げるように頼んだ。「主よ、私の家にあなた自身がわざわざ入らないでください。私は、私の屋根の下に来てもらうに相応しい者ではありませんので。私があなたの方に参るのもまた相応しいとは考えませんでした。そういう訳で、あなた民族の長老を送らせていただきました。ところが、私は、あなたが立っておられるその場で言葉を話し、私の下僕を癒すことができるということを存しております。なぜなら、私自身、他者の命令下にあり、また私の下には兵隊達がおり、この中の一人に行けと言うと行き、また、他の者に来いというと来ます。それに、私の使用人達にこれをせよ、あれをせよと言うと、皆はします。」

イエスは、これらの言葉を聞くと、使徒や共にいた者達に向き直って言った。「非ユダヤ人の信仰には驚嘆する。誠に誠に言っておく。私は、それほどまでに厚い信仰を見たことがない。いや、イスラエルにはない。」イエスは、家を背にして、「では、行こう」と、言った。そこで、百人隊長の友人達は、家に入って行き、イエスの言ったことをマングスに言った。すると、その時間から使用人は、回復し始め、結局、通常の健康と機能を取り戻した。

しかし、我々は、ちょうどこの時に起こったかについて決して分からなかった。これは単なる記録であり、目に見えない存在が、百人隊長の使用人の治療に当たったかどうかに関しては、イエスに同伴した人々には明らかにされなかったということである。我々は、使用人の全快の事実を知るだけである。

2. エルサレムへの旅

3月30日、火曜日の朝早く、イエスと使徒の一行は、過ぎ越しの祭りのためにヨルダン渓谷経路でエルサレムへの旅を始めた。かれらは、4月2日、金曜日の午後到着し、いつも通り、ベサニアに本部を設けた。イェリーホ通過の際、ユダが家族の友人の銀行で何某かの皆の共通基金の預金をする間、かれらは、休息のために止まった。ユダが余剰金を持ち運んだのは、これが初めてであり、この預金は、イエスの裁判と死の直前にエルサレムへの最後の、そして波瀾万丈の旅で再びイェリーホを通過まで手つかずのままであった。

一行は、エルサレムへ平穏無事に旅したが、ベサニアではほとんど落ち着けなかった。身体の治療、煩わされた心の慰め、魂の救済を求めに遠近から来る者達が、非常にたくさん集まり始めたので、イエスには、休息のための時間がほとんどなかった。従って、彼らは、ゲッセマネにテントを張り、あるじは、絶えず群がりくる群衆を避けるために、ベサニアからゲッセマネへと往復するのであった。使徒の一行は、エルサレムでおよそ3 週間過ごしたが、イエスは、彼らに公開の説教ではなく、個人的な教育、および個人的な仕事だけをするように申しつけた。

かれらは、静かに過ぎ越し祭りをベサニアで祝った。そして、イエスと12人が血を見ることのない過ぎ越し祭りの祝宴に加わるのは、これが初めてであった。ヨハネの使徒は、イエスとその使徒と過ぎ越しの祭りの食を共にしなかった。彼らは、アブネーと、そしてヨハネの説教の初期の信者達と宴を祝った。これは、イエスがエルサレムで使徒と共に祝った2 度目の過ぎ越し祭りであった。

イエスと12人のカペルナムへの出発の際、ヨハネの使徒は、ともに戻らなかった。アブネーの指示に従い、かれらは、エルサレムと周辺の地域に留まり、王国の拡大のために静かに働き、一方イエスと12人は、働くためにガリラヤに戻った。70人の伝道者が任命され送り出されるほんの少し前まで、24人全員は、決して2度と一緒にはならなかった。しかし、2集団は協力的であり、相互の意見の相違にもかかわらず、最高の感情が勝った。

3. ベセスダの池にて

エルサレムでの2 度目の安息日の午後、あるじと使徒が寺での礼拝に参加しようとしていると、ヨハネが「共に来てください。あるものをお見せしたいのです。」とイエスに言った。ヨハネは、エルサレムの門の1 つを通りイエスをベセスダと呼ばれる大池へと案内した。この池の周囲には、5 つの柱廊玄関の構築物があり、その下には大集団の苦しむ者が治療を求めてたむろしていた。これは、赤みがかった水が、池の下の岩石の洞窟におけるガス蓄積の結果、時おり不規則な間隔で泡立つ温泉であった。この周期的な暖かい水域の撹拌は、超自然の影響によるものだと多くに信じられ、また、そのような撹拌後の水に入った最初の者は、どのような疾患であろうとも癒されるというのが一般的信仰であった。

使徒は、イエスから強要された規制の下で幾らか落ち着かずにいた。そして、12 人中、最も若いヨハネは、この束縛に特にいら立っていた。かれは、あるじが、集まった苦しむ者達の光景に強く同情を引かれ、奇跡の治療の実行へと心が動かされ、それにより、全エルサレムが仰天し、やがて、それ等は説き伏せられて王国の福音を信じるであろうと考えたうえで、イエスを大池に連れてきた。ヨハネが言った。「あるじさま、これらの苦しんでいる者達をご覧ください。我々が何かしてやれることはないのでしょうか。」そこで、イエスは答えた。「ヨハネ、なぜ私が選んだ道から逸れるように私を唆そうとするのか。なぜ永遠の真実の福音の宣言の代わりに、驚異の働きや病人の治療に置き換えることを望み続けるのか。息子よ、そなたの望みに沿うようなことはしないかもしれないが、大いなる歓呼と永遠の慰めの言葉が掛けられるように、これらの病人と苦しむ者達を集めなさい。」

この集まってきた者達にイエスが話した。「あなた方の多くが、長年の誤った生活のために病気であったり、苦しんだりしてここにいる。ある者は時の災難に、他の者は祖先の誤りの結果に苦しむ一方、君達の一部は、この世での束の間の生活の不完全な状態の困難な条件下で苦しんでいる。ところが、私の父は働いており、また、私は、あなた方の地上での状態を改善するために、それどころか、とりわけ永遠の身分を保証するために働くのである。天の父がそう望んでいると発見しない限り、我々の中の誰も、人生の困難を変えるために大いに役立つことはできない。結局、我々は全員、永遠なるものの意志を為す恩義を受けている。もしあなた方が、全ての肉体の苦悩が癒されれば、確かに驚嘆するであろうが、すべての精霊的な病が浄められ、すべての道徳的な虚弱さが癒されたと気づくならば、それのほうがはるかに素晴らしいことである。あなた方は、皆神の子である。天なる父の息子である。時間の束縛が苦しめているように思えるかもしれないが、永遠の神は、あなたを愛している。また、審判の時が来るとき、恐れてはいけない、あなた方すべてが、正義ばかりではなく、慈悲の豊かさを見い出すであろう。本当に、本当に、あなた方に言おう。王国の福音を聞き入れ、神と息子性のこの教えを信じる者は、永遠の命を有している。そのような信者達は、すでに審判と死から光と命へと移っており、また、墓にいる者達さえ復活の声を聞く時が来ているのである。」

聞いた人々の多くは、王国の福音を信じた。苦しむ者の幾人かは、非常に元気づけられ精霊的に生き返され、自分達の疾患もまた癒されたと宣言して歩きまわるのであった。

不安な心の疾患に長年伏さぎ込み苦しんできた一人の男が、イエスの言葉に喜んで家に帰り、安息の日ではあったが、寝床をあげた。この苦しむ男は、誰かが助けてくれるのをこれらの年月ずっと待っていたのであった。それほどまでに自己の無力の犠牲者であったので、かれは、自身を助けるという考えを一度も持ったことがなかったのだが、回復のために彼がすべきことは1つのこと—寝床を片付けて歩くこと—であったと分かった。

その時、イエスがヨハネに言った。「司祭長等と代書人等がやってきて、我々がこれらの苦しんでいる者に生命の言葉を話したと怒る前に出立しよう。」そこで、仲間に加わるために寺院に戻り、まもなくベサニアで夜を過ごすために出発した。しかし、ヨハネは、この安息日の午後のイエスとのベサニアの大池のこの訪問について、ついぞ他の使徒に話さなかった。

4. 生活の原則

ベサニアで、この同じ安息日の夕方に、イエス、12 人、それに一団の信者が、ラーザロスの庭で火を囲んで集まっていると、ナサナエルが、イエスにこう質問をした。「あるじさま、我々が自分にしてもらいたと思うことを他の者にそうするべきであると訓示され、古い生活規則の前向きな所見を我々に教えてくださいましたが、私はどのようにそのような命令をいつも守ることができるか完全に理解したわけではりません。好色で、それ故、邪に内縁関係を結ぼうと企む男の例を引用することで、私の主張を例示させてください。我々は、人にしてもらいたいと思うことを人に施すということを、この悪を企む男にどう教えることができるでしょうか。」

ナサナエルの質問を聞くと、イエスは、すぐに立ち上がり使徒達に指さして言った。「ナサナエル、ナサナエル、心でいかような考えをしているのか。私の教えを精霊の生まれの者として受け取りはしないのか。知恵ある者、また精霊的なものを理解する者として真実を聞かないのか。人にしてもらいたいことを人に施せと諭すとき、私の教えを悪行の奨励認可へと捻曲げようとする者にではなく、高い理想の人間に私は語り掛けている。」

あるじが話し終えると、ナサナエルは、立ち上がって言った。「しかし、あるじさま、私が、あなたの教えのそのような解釈に賛成すると思うべきではありません。多くのそのような人間が、あなたの諌言をこのように誤解するかもしれないと推測したのでお尋ねしたのです。そこで、これらの問題に関して我々に一層の指示を与えていただきたいのです。」そうしてナサナエルが座ると、イエスは、話し続けた。「よく分かっている、ナサナエル。そのようなどんな悪の考えもそなたの心には無いということを。だが、君達全員が、しばしば私の常套の教えに、つまり、人間の言語で、しかも人間が話すはずの言語で与えねばならない教えに、純粋に精霊的な解釈をし損ねるのには失望している。生活のこの原則、『人にしてほしいと望むことを人に施せ』というこの訓戒の解釈に与えられる意味の異なる段階に関し教えよう。

1. 肉体の段階。かくのごとく全く利己的で淫らな解釈は、あなたの質問の仮定によってよく例示されているであろう。

2. 感情の段階。この段階は、肉体のそれよりも1段階高くて、共感と哀れみが、生活のこの原則に関する人の解釈の度合を高くすることを意味する。

良い判断は、生活のそのような原則が、深遠な自尊の気高さに具現される高い理想主義に一致して解釈されるべきであることを要求する。

4. 兄弟愛の段階。仲間の福祉へのさらに高い寡欲な献身の段階に気づく。神の父性に対する意識とその結果からくる人の兄弟愛の認識から生じる心からの社会奉仕のこのより高い段階においては、この生活の基本的な原則の新しくてはるかに美しい解釈が発見される。

5. 道徳的段階。すると、解釈の真の哲学の段階に達するとき、物事の正誤に対する真の洞察力を持つとき、そして人間関係の永遠の適合性を知覚すとき、高潔で、理想主義的で、賢明かつ公平な第三者が、あなたの人生状況への調整の個人的問題に適用するそのような訓令を考え、解釈するであろうと、人が想像するような解釈のそのような問題を考え始めるであろう。

6. 精霊的な段階。そうすると遂に、神が人間を扱うであろうと我々が心に抱くように、全ての人間を遇するこの神性の命じる生活のこの法を我々に強いて気づかせる精霊の洞察と精霊的な解釈の段階に、我々は達する。それは、宇宙の人間関係の理想である。そして、人の最高の願望が、常に父の意志を為すことであるとき、これは、すべてのそのような問題に対する人の態度である。私は、それ故、同様の情況において私がするでろうと弁えることをすべての人にしなければならないい。」

イエスがこの時までに使徒に言った何も、これほどまでに彼らを驚かせなかった。彼らは、あるじが退いた後もずっとその言葉について検討し続けた。ナサナエルは、イエスが自分の質問の意図を誤解したという億測から立ち直るのに時間が掛かったが、他のものは、哲学的な仲間の使徒が、そのような思考を刺激する質問をする勇気に対し十二分に感謝していた。

5. パリサイ人サイモンを訪ねる

サイモンは、ユダヤ人のサンヘドリンの一員ではなかったが、影響力のあるエルサレムの有力なパリサイ人であった。かれは、不熱心な信者であり、そのために厳しく批評されるかもしれないが、あえてイエスとその個人的な仲間であるペトロス、ジェームス、ヨハネを社交を兼ねた食事に家へと招待した。サイモンは、今まであるじを観測してきて、その教えに、それ以上に彼のひととなりに非常に心を動かされた。

裕福なパリサイ人等は、慈善に没頭しており、自分達の博愛に関し公表を回避しなかった。ある乞食に慈善を施そうとするとき、時折はトランペットさえ吹くのであった。貴賓のために宴会を開くとき、食事をしている人達の長椅子の後方の部屋の壁に沿って立ち、宴会客が、彼らに投げるかもしれない食物の一部を受けるために通りの乞食さえ入ってくることができるように家の戸を開け放すことが、これらパリサイ人の習慣であった。

サイモンの家でのこの特別の機会に、通りから来る者の中に最近王国の福音の朗報の信者になった道徳的に芳しくない評判の女性がいた。この女性は、非ユダヤ人の寺院の中庭のすぐ近くに位置するいわゆる高級売春宿の中の一つの元管理人としてエルサレム中によく知られていた。彼女は、イエスの教えを受け入れ、邪悪な商売の場を閉鎖して、自分に関連した女性の大部分が福音を受け入れて生活様式を変えるように仕向けた。これにもかかわらず、彼女は、まだパリサイ人にかなり軽蔑されたままで、また髪を下ろしたままでいること—売春の象徴—を強要されていた。この無名の女性は、匂い入りの塗布用洗浄水の大きな瓶をもってきてイエスの後ろに立っており、イエスが食卓の方に寄り掛かると、その足を塗布し始めると共に、感謝の涙でも足を濡らし、自分の頭髪でそれを拭った。そして、この塗布を終えても、彼女は、足に涙を流しつつ口づけを続けた。

サイモンがこのすべてを見て、「この人がもし予言者であるならば、自分に触れるこの女が何者でどんな様子であるか、つまり悪名高い罪人であることを見て取るであろうに。」と思った。イエスは、サイモンの心で何が起きているかが分かり、はっきり言った。「サイモン、君に言いたいことがある。」サイモンが答えた。「先生、お続けください。」そこで、イエスが言った。「ある裕福な金貸しには、2 人の債務者がいた。一人は500 デナリウス銀貨を、他の一人は50 のデナリウス銀貨を借りた。さて、二人のどちらとも支払う何もないとき、彼はその両方を許した。そのうちのいずれが、サイモン、その男をより愛しているであろうのう。」サイモンが答えた。「その男、多額を許された男の方だと思います。」「そなたはまともに判断した。」と、イエスは言い、女性を指差しながら続けた。「サイモン、この女性をよく見なさい。私は招待客として君の家に入ったが、私の足にはいささかの水ももらわなかった。この謝意を示す女性は、涙で私の足を洗い、それを彼女の頭髪で拭いた。君は親しみのこもった挨拶の口づけの一つもしなかったが、入って来てからずっとこの女性は、私の足に口づけするのをやめなかった。、君は私の頭に塗油するのを怠ったが、彼女は、貴重な洗浄水を私の足に塗った。そこで、このすべての意味は、何であるのか。単に、その意味は、彼女の多くの罪が許されてきたということ、そしてこれが、彼女を非常に愛するように導いてきた。だが、ほんの少ししか許しを受けなかった者達は、少ししか愛さないのである。」それから、女性の方に振り向きその手を取り、彼女を立たせながら言った。「あなたは本当に自分の罪を悔いたので、それらは許された。仲間の軽はずみで不親切な態度にがっかりしてはいけない。天の王国の喜びと自由で前進しなさい。」

サイモンと食事の席に着いていたその友人達がこれらの言葉を聞くとさらに驚き、自分たち同志で「罪を許しさえものともしないこの男は誰であろう。」とひそひそと話し始めた。そして、このように呟やかれていているのを聞くと、イエスは、女性を帰すために「婦人よ、安心して行きなさい。あなたの信仰がそなたを救った。」と言った。

イエスが友人達と去ろうと立ち上がりながらサイモンに向かって言った。「君の心は分かっている、サイモン。いかに信仰と疑いの狭間で取り乱し、いかに恐怖に取り乱し、また誇りに煩わされているかを。しかし、私は、王国の福音が、招かれも歓迎もされない客の心ですでに生じた凄まじい変化に匹敵するような、ちょうどそのような強力な心と精神の変化を人生の自分の拠点において君が光に譲り、経験することができるように君のために祈る。そして、私は、父が天の王国に入る信仰を持つ者すべてにその入り口を開いたと、そして、地上の最も卑賎な者、またはおそらく紛れもない罪人に対してさえ、それが入り口を心から求めるならば、誰も、あるいは人間のいかなる結社も、これらの入り口を閉じることはできない、と君達すべてに宣言する。」そして、イエスは、ピーター、ジェームス、ヨハネとともに、主人に暇乞いをし、ゲッセマネの庭で宿営をしている使徒に加わるために戻って行った。

同夜、イエスは、使徒にとって長期にわたり記憶することになる神との地位の相対的価値と楽園への永遠の上昇における進展について演説をした。イエスが言った。「子供達よ、子と父との間に本当の、また生きた関係が存在するならば、子供は、父の理想に向かって絶え間なく進歩することは確かである。本当に、子供は、最初は遅い前進をするかもしれないが、それでもなお、進歩は確かである。重要なことは、進歩の敏速性ではなく、むしろその確実性である。進歩の方向が神へ向かうという事実ほどには、実際の業績は、それほど重要ではない。今日、あなたが何であるかよりも、日々無限になることの方がより重要なのである。

「君達の一部が、今日サイモンの家で見たこの変化した女性は、現在、サイモンやその善意の仲間のずっと下の生活水準で暮らしている。しかし、これらのパリサイ人が、無意味の儀式的な礼拝のまやかしの段階の通過に関する幻想の偽りの進展に専念する一方で、この女性は、真剣に、神の長くて波瀾万丈の探索を始め、天への彼女の道は、精神的な自負や道徳上の自己満足に妨げられてはいない。この女性は、人間の立場で言えば、サイモンよりも神からははるか遠くにいるが、その魂は、進歩的な動きをしている。彼女は、永遠の目標に向かって行く途中である。この女性には、将将来への凄まじい精霊的可能性がある。一部の君達は、魂と精霊の実際の水準の高さには立っていないかもしれないが、神への開かれた生きる道で、信仰を通して、毎日前進している。君達等の一人一人には、未来に絶大なる可能性がある。「不活発な俗世間の智慧の蓄えと精霊的な不信仰の優れた知性を備えていることよりも、小さいが、生きていて発達する信仰を持つ方がずっとよい。」

しかし、イエスは、父の愛に甘える神の子供の愚かさを避けることを使徒にくれぐれも注意した。かれは、天の父が、いつでも罪を容赦し、無謀を許そうとするような、手ぬるい、しまりのない、または愚かに寛大ではない親であると断言した。父と子の例証を、軽はずみな子供の道徳的な破滅をもたらす地球の愚かな者と共謀し、その結果、自身の子供らの非行と早期の堕落に確実に、直接的に教唆する甘やかし過ぎて、賢明でない両親が神が似ていると誤って適用しないように聞き手に警告した。イエスは言った。「私の父は、すべての道徳的な成長と精霊的な進歩にとって自己破壊的で、自滅的である自分の子の行為と習慣を寛大に容赦はしない。そのような罪深い習慣は、神の目には忌まわしいことである。」

ようやく使徒とカペルナムに出発する前、イエスは、エルサレムの身分の高い者や低い者、金持ちや貧乏人との他の多くの半ば私的な会合や宴会に出席した。実に、多くの者が、王国の福音の信者となり、やがては、エルサレムとその周辺で王国の利益を促進するために後に残ったアブネーとその仲間によって洗礼された。

6. カペルナムへの帰着

4月最後の週、イエスと12人は、エルサレム近くのベサニア本部から出発し、イェリーホとヨルダンを通りカペルナムへの帰路ついた。

主要な聖職者とユダヤ人の宗教指導者は、イエスをどう扱うべきか決めるために多くの秘密の会合を開いた。彼の教えを終わらせるための何かをすべきであると皆が同意するのであったが、その方法については意見がまとまらなかった。彼らは、ヘロデがヨハネを死に追いやったように、行政当局がイエスを処分することを望んでいたが、イエスが、ローマ当局が彼の説教をあまり警戒しないほどの仕事をしていたことが分かった。従って、カペルナムへのイエスの出発前日に開かれた会合では、かれは、宗教上の罪で捕縛され、サンヘドリンによる裁判にかけられなければならないと決められた。したがって、イエスの後をつけ、その言葉と行動を観察し、法律違反と冒涜の十分な証拠を収集したところで、エルサレムに報告をもって戻るための6 人の密偵委員会が任命された。これらの6 人のユダヤ人は、30 人ほどの使徒の一行にイェリーホで追いつき、弟子になるのを望むと見せかけイエスの追随者の家族に加わり、ガリラヤでの2 回目の説教巡行の始まるまでその集団に留まっていた。そこで、そのうちの3 人は、主要な聖職者とサンヘドリンに報告するためエルサレムに戻った。

ペトロスは、ヨルダン川の向こうで群衆に説教し、翌朝、彼等は、アマススに向かい川を上った。かれらは、カペルナムに真っ直進みたかったのであるが、それほどまでの群衆がここに集まったので説教し、教え、洗礼をし、3 日間留まった。かれらは、安息日の朝、つまり5 月1 日まで、家に向けて進まなかった。エルサレムの密偵は、イエスが、安息日にあえて旅行を始めるつもりであったので、そのときイエスに対する最初の罪状—安息日の違反—を手にしたたと確信していた。しかし、かれらは、失望する運命にあった、というのも、出発直前、イエスは、アンドレアスを面前に呼び入れ、そして皆の前で、ユダヤの安息日の法的に許される道程であるほんの1,000 メートル足らずの距離を進むように命令したからであった。

だが、密偵は、イエスとその仲間を安息日違反で告訴する機会を長く待つには及ばなかった。一行が細い道に沿って通っていると、ちょうど実のついたばかりの波うつ小麦が、両側の手近にあり、使徒達の数人は、空腹であったので、熟れた粒をむしって食べた。旅人が道路に沿って行くとき、穀物を自由に取ることは慣例であり、従って、そのような行為に悪行という考えなどは決して結びつけられなかった。しかし、密偵は、イエスを責めたてる口実としてこれに飛びついた。かれらが、アンドレアスが手の中で穀物を擦るのを見て歩み寄って言った。「安息日に粒を毟り、擦るのは不法であることと知らないのですか。」そこで、アンドレアスが答えた。「といっても、我々は空腹であり、必要分しか擦っていない。それと、いつから、安息日に穀物を食べるのは罪となったのですか。」しかし、パリサイ人は言った。「食べることは悪くはないが、粒を毟り、手の中で擦ると法を破ることになる。まさか、あなたのあるじは、そのような行為をよいとは思わないであろう。」その時、アンドレアスが言った。「しかし、粒を食べるのが悪くなければ、我々の手の間での摩擦は、あなたが許す粒の咀嚼より大きな仕事ではない。そのようなつまらないことでなぜとやかく言うのか。」アンドレアスが、彼らが揚げ足取りであると仄めかすと、彼らは憤慨し、イエスがマタイオスと話しながら歩いているところに急いで戻り、抗議して言った。「先生、見てください。使徒が安息日に不法なことをしています。穀物を毟り、擦って、それを食べています。あなたが、彼等を止めるよう命令するのを確信しています。」その時、イエスは、批難する者達に言った。君達は、実に法に熱心であり、また、安息日を神聖に保つこともよく覚えている。だが、ある日ダーヴィドが空腹で、共にいた者達と神の家に入り、供え物のパンを食べたが、それは、聖職者達を除き、誰にも合法ではないというのを聖書で読んだことはないのか。そして、ダーヴィドもまた、共にいた者達にこのパンを与えた。また、安息日に多くの必要なことをするのが合法的であると我々の法律を読みとってはいないのか。そして、私は、日が終わる前に君達がこの日に必要な持参物を食べるのを見はしないのであろうか。良い部下よ、君達は安息日にとても熱心でありはするが、仲間の健康と幸福を見守ることをより上手にするほうが良かろう。私は、安息日のために人が作られたのではではなく、人のために安息日が作られたと断言する。そして、私の言葉に注意して共にここにいるならば、人の息子は、安息日にさえ主であると公然とに宣言する。」

パリサイ人は、彼の眼識と叡知の言葉に驚き困惑した。その日の残りは、かれらは、自分達だけでいて、それ以上の質問は敢えてしなかった。

ユダヤの伝統と隷属的な、盲目的な、儀式に対するイエスの反目は、いつも積極的であった。それは、彼がしたこと、そして確言したことに表された。あるじは、ほとんど否定的な批難に時間を費やさなかった。彼は、神を知る人々は、罪を犯す許可により自分を騙すことなく生きる自由を楽しむことができるということを教えた。イエスは使徒に言った。「人は、真実によって教えられ、本当に自分がしていることを知っているならば、幸せである。だが、もし神の道を知らなければ、不幸であり、すでに法を破る者である。」

7. カペルナムに帰着

イエスと12 人が舟でタリヘアからベスサイダに来たのは5月3日、月曜日の正午頃であった。かれらは、旅をともにしていた人々から逃がるために舟で移動した。しかし、翌日までには、エルサレムからの正式の密偵を含む他の人々が、再びイエスを見つけた。

火曜日の夕方、イエスが質疑応答の通例の授業をしていると、6人の密偵の首領が言った。「私は、今日、あなたの授業に付き添ってここにいるヨハネの弟子の一人と話していました。そして、我々は、あなたが、なぜあなたの弟子達に、我々パリサイ人やヨハネの追随者が断食するように、また祈るように決して命じないのか合点がいきませんでした。」そこでイエスは、ヨハネの声明を参照して、この質問者に答えた。「花婿が一緒にいるとき、花嫁の部屋にいる息子達は、断食をしますか。花婿が共にいる限り、彼らはほとんど断食することはできない。しかし、花婿が連れ去られるときはやって来るし、その時には、花嫁の部屋の子達は、疑う余地なく断食も祈りもするであろう。祈ることは、光の子供にとって自然であるが、断食は、天の王国の福音の一部ではない。賢明な仕立屋は、それが濡れて、縮んで酷い綻びを作らないように、古着に新しく、まだ縮んでいない1 切れの布を縫いつけないということを思い出しなさい。人は、また、新しい葡萄酒が皮を破裂させ、葡萄酒と皮の両方を悪くするといけないので、新しい葡萄酒を古い皮に入れはしない。賢明な人は、新葡萄酒を新皮に入れる。したがって、王国の福音の新しい教えに古い規律をあまり多く持ち込まないということで、私の弟子は、賢明さを示しているのである。師を失ったあなた方には一時、断食が正当化されるかもしれない。断食は、モーシェの法の適切な部分であるかもしれないが、来たる王国では、神の息子達は、恐怖からの自由と神性の精霊に喜びを経験するのである。」これらの言葉を聞くと、ヨハネの弟子は慰められ、パリサイ人は、より混乱に陥った者であった。

それからあるじは、すべての古い教えは、完全に新しい教義に取り替えられるべきであるという概念を抱くことに対し聴衆に警告し始めた。イエスは言った。「古く、真実であるものは留まらなければならない。同様に、新しいが、間違っているものは拒絶されなければならない。しかし、新しく、真実であるものを受け入れる信仰と勇気を持ちなさい。それが書かれているのを思い出しなさい。『新しい友は、旧友に匹敵しないのであるから、旧友を見捨ててはならない。新しいワインとても、新たな友人と同じである。それが古くなれば、あなたは喜んでそれを飲むであろう。』」

8. 精霊的な善の祝宴

その夜、普通の聴衆が退散したかなり後に、イエスは、使徒に教え続けた。予言者イザヤからの引用することからこの特別な教示を始めた。

「『なぜ断食したのか。圧迫に喜びを見つけ、不正な扱いを楽しみ続ける傍ら、いかなる理由で魂を苦しめるのか。見よ、断食をするのは、争いと論争のためであり、不法に拳を打ちつけるためである。しかしながら、いと高きところで声を聞いてもらうためには、このように断食すべきではない。

「私が選んだ断食は—人が魂を苦しめる日は—このようなものであろうか。それは、葦のように頭を垂れ、粗布と灰に腹這うこであろうか。あえてこれを断食と呼び、主の目にとって満足の日と呼ぶのであろうか。私が選ぶ断食は、これではないのか。邪な絆を解き、重い負担の結び目を緩め、虐げられた者を自由の身とし、全てのくびきを壊すこと。飢える者にパンを分け与え、家の無い者や貧しい者を私の家に連れてくることではないのか。そして、裸者を目にするとき、私はそれらに着せるつもりである。

そのとき、暁のようにあなたの光が差し出で、あなたの調子はすみやかに上がる。あなたの義は、あなたの前に進み、主の栄光が、あなたのしんがりとなる。あなたが乞うと、主は答え、あなたが叫ぶと、私はここにいる、と仰せられる。そして、あなたが抑圧、非難、虚栄を慎めば、主はこの全てをするであろう。父は、むしろ、あなたが、飢える者に心を配り、悩む者に働き掛けることを望んでいる。そうすると、あなたの光は闇の中に光り輝き、あなたの暗闇さえ真昼のようになる。そして、主は、絶えずあなたを導き、魂を満たし、強さを更新する。あなたは潤された園のようになり、水の枯れない泉のようになる。そして、これらのことをする者達は、ふいになった栄光を回復する。かれらは、多くの世代の礎を築き直すであろう。かれらは、崩壊された壁の再建者、住めるように往来を回復する者、と呼ばれるであろう。」

それから、長く夜遅くまで、イエスは、弟子に現在と未来の王国で確実にするのは彼らの信仰であり、魂の苦悩でも肉体の断食でもないという真実を提議した。かれは、使徒に少なくともこの昔の予言者の考えに従うことを熱心に説き、また、イザヤや、それより以前の予言者達の理想さえもはるかに超えて進歩するという望みを述べた。彼のその夜の締め括りの言葉は次の通りであった。「あなたが神の息子であるという事実を把握し、同時に誰もがきょうだいであると認識するその生きる信仰により、神の恵みで豊かになりなさい。」

イエスが話すのを止め、皆が眠りについたのは朝の2 時過ぎであった。

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