論文 3 神の属性

   
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論文 3

神の属性

神はいたる所にいる。宇宙なる父は永遠の回路を統治する。宇宙なる父は、ちょうどこれらの息子を通して生命を与えるように、楽園の創造者たる息子の人格の中にあって地方宇宙で統治する。「神が我々に永遠の命を賜り、そして、この生命はその息子のうちにある。」これらの創造者たる息子は、時間の領域の中における、そして、発展する空間宇宙の渦巻く惑星の子らへの、自身の人格表現である。

高度に人格化された神の息子は、低位の創造された知力あるものにより明確に認識され、しかも、無限の、それゆえ、あまり認識できない父の不可視性をこうして補うのである。宇宙なる父の楽園の創造者たる息子は、その他の点では不可視である、すなわち、永遠の回路において、また、楽園の神格の人格において固有の絶対性と無限性ゆえに不可視である存在体の顕示である。

創造者であることは、ほとんど神の属性ではない。それは、むしろ神の行為の性質の集合性である。創造者であることのこの普遍的機能は、それが第一根源と中枢の無限であり、神性である現実のすべての連携属性により条件づけられるように、また制御されるように永遠に明かにされる。我々は、神性の何か1つの特性を他のものに先立つと見なすことができるかどうか心から疑うが、もしこういう事情であるならば、神格の創造者であることの本質は、他のすべての本質、活動、および属性に優先するであろうに。そして、神格の創造者であることは、神の父権の普遍的真理に至る。

いたる所に、そして同時に存在するという宇宙なる父の能力は、要するにその遍在の性質ということになる。神しか、同時に2箇所に、無数の場所にいることはできない。神は同時に、「上は天、下は地に」いる。詩編作者が詠嘆したように、「私は、あなたの御霊から何処へいけましょう。あなたの御前から逃げられましょうか」

「『私は、遠くはもとより手近にいる神である』と、主は言う。『私は天地を満たしはしないか。』」宇宙なる父は、絶えず、広範囲の創造のすべての部分とすべての中心にいる。宇宙なる父は、「すべてを満たし、すべてに満ち満ちている方の豊かさ、」そして、「すべてのものの中に働く方の豊かさ」であり、さらには、その人格の概念は、「天(宇宙) と天の中のと天 (宇宙の中の宇宙)も、神を含むことができない」ほどである。神はすべてであり、すべての中にいるということは文字通り本当である。しかし、それさえ神のすべてではない。無限者は、最終的には無限においてのみ明らかにすることができる。原因は、決して結果の分析によって完全に理解され得るというものではない。生ける神は、束縛のない自由意志の創造的行為の結果として生まれた創造の全体よりも測り知れないほどに偉大である。神は、宇宙全体にわたり明らかにされるが、宇宙は、決して神の無限全体を収容したり、取り囲んだりは決してできない。

父の臨場は、絶えず主たる宇宙を巡回する。「神が行き巡るのは天の端からであり、その巡回はその終わりまである。また、その巡回の光から隠されるものは何もない。」

創造物が神に存在するだけではなく、神もまた創造物に生きる。「我々は、神が我我の中に生きているので我々は神の中に住んでいるのを知っている。神は自らの御霊を我々に賜れた。楽園の父からのこの贈り物は、人の切っても切れない友である。」「その方は遍在し、すべてに浸透している神である。」「不朽の父の御霊は、すべての人間の子の心に隠されている。」「まさしく友が自身の心の中に住まうその間に、人は友というものを捜し求めに行き巡る。」「真の神は、遠くにはいない。神は我々の一部である。その御霊は我々の内から話しをする。」「父は子供の内に生きる。神はいつも我々と共にいる。神は永遠の目標へ誘導している御霊である。」

「あなたは神から出ている」なぜなら「愛に住む人は神に住んでおり、神はその人のうちにいる。」とまさしく人類について言われてきた。あなたは、たとえ悪行においてさえ、神の内住の贈り物を苦しめるのである。なぜなら、思考調整者は、人間のその幽閉の心との邪悪な考えの結果に直面せざるをえないのであるから。

神の遍在は、実際には神の無限の性質の一部分である。空間は神格への何の障害も設けない。神は、完全に、しかも、制限なくして、楽園と中央宇宙だけに識別可能に臨場している。神は、ハヴォーナを包囲する創造においてこのようにして、観察可能に臨場しているのではない。神は、時間と空間の宇宙の等位の創造者と支配者の主権と神性特権の認識において直接的、実際の、臨場を限ったのであるから。したがって、神性臨場の概念は、永遠なる息子、無限の精霊、楽園の小島の臨場回路を擁するさまざまの顕現様式と伝送路の双方を許容しなければならない。また、宇宙なる父の臨場と永遠の等位者と媒体の作用とを見分けることも常に可能というわけではない。等位者と媒体は宇宙なる父の変らない目的の無限の全要件を完全に実現させるのであるから。人格回路と調整者についてはそうではない。ここでは、神は特異に、直接的に、排他的に活動する。

宇宙の制御者は、質量に一致し、この臨場に対する物理的要求に応え、また、万物が神に密着し、神の中にあって成り立つようにする全創造の固有の性質のために常に、また同じ度合いにおいて、宇宙の各部において楽園の小島の重力回路に可能性を秘めて臨場する。同様に、第一根源と中枢は、永遠の未来の創造されていない宇宙の集積所である無条件絶対に潜在的に臨場している。神は、こうして、過去、現在、未来の物理的宇宙を潜在的に瀰漫させる。彼は、いわゆる物質的創造の結合の原初の基盤である。この非精霊神格の可能性は、宇宙活動の舞台への専属媒体の中のどれか一つの説明し難い侵入による物理的生存段階を通じあちこちで顕在化する。

神の心の臨場は、結合の活動者と、すなわち無限の精霊の絶対心と相関関係があるが、それは、有限の創造においては、楽園の熟練の精霊の宇宙心の随所における作用においてよく明察される。ちょうど第一根源と中枢が結合の活動者の心の回路に潜在的に存在しているように、第一根源と中枢は宇宙なる絶対者の緊張感に潜在的に臨場している。しかし、人間の系列の心は、発展する宇宙の神性の聖職活動者である結合の活動者の娘の贈与である。

宇宙なる父の遍在の精霊は、永遠なる息子の普遍的精霊の臨場と神格絶対の永遠の神性可能性の作用と調整される。しかし、創造物の子供の心情においては、永遠なる息子とその楽園の息子の精霊的営みも、無限の精霊の心の贈与も神の内住する断片である思考調整者の直接行動を取り除くようには見えない。

惑星、体制、星座、あるいは宇宙における神の臨場に関しては、いかなる創造上の構成単位におけるそのような臨場の度合いが、崇高なるものの発展的臨場の度合いの尺度である。それは、体制と惑星自体にまで及ぶ広大な宇宙組織側による全体の神の認識と神への忠誠全体で決定される。したがって、いくつかの惑星が、(または、体制でさえ)、深く精神の暗闇に突っ込んでしまったとき、それらがある意味において隔離されるか、または、より大きい創造単位との交わりから部分的に孤立され、神の貴重な臨場のこれらの局面を保存し、保護する望みが時としてある。そしてこのすべてが、それがユランチアで作用するように、強情で邪な謀反の少数派の離反行為からの孤立の因果関係から、自らを、できる限り救うための世界の多数派の精霊的防護の反応である。

父が、すべての自分の息子--すべての人格--を親らしく回路化する一方で、息子らへの影響は、神格の第二人格と第三人格からのそれらの起源の遠さにより制限され、しかも、息子らの目標到達がそのような段階に近づくにつれ増大する。創造物の心における神の臨場の事実は、神秘の訓戒者などの父の断片の内住の是非により決定されるが、髪の有効な臨場は、これらの内住調整者の滞在している心による協力にふさわしい度合いにより決定される。

父の臨場のばらつきは、神の可変性によるものではない。父は、侮辱を受けたがゆえに隠遁に身をおくのではない。父の愛情は創造物の悪行を理由に遠ざけられはしない。その子供らは、選択力(自己に関係して)が授与されたので、むしろ、その選択の行使において、直接自身の心と魂における父の神性の影響の度合いと限界を決定する。父は、制限も贔屓もせずに自分自身を自由に我々に贈与した。父は、人々、惑星、体制、または宇宙を差別するものではない。時間の領域において、父は、七重の神の機能の楽園の人格にだけ、有限宇宙の等位創造者に異なる名誉を贈る。

全宇宙が、「全能にして主なる神は君臨する。」ということを知っている。この世界と他の世界の問題は、神により監督される。「神は天の軍勢と地に住むものの中にあって自分の意のままにあしらう。」「神によらない力はない」というのは永遠に真実である。

神性と矛盾しない領内においては、「神には、全てが可能である」というのは文字通り真実である。民族、惑星、および宇宙の延々と続く進化の過程は、調和して秩序よく、また、神のすべてに賢明な計画を保ちつつ、宇宙の創造者と行政者の完全な支配下にあり、宇宙なる父の永遠の目的に合致して展開する。ただ1人の立法者しかいない。宇宙なる父は、空間において世界を支え、永遠の回路の無限の円周において宇宙を回す。

その全能性は、特に物質的宇宙に行き渡っているように、すべての神性属性の中で最もよく理解されている。精霊的でない現象として見るならば、神はエネルギーである。物理的事実のこの表明は、第一根源と中枢が全空間の普遍的な物理現象の第一原因であるという不可解な真実に基づいている。この神の営みから、すべての物理的エネルギーと他の物質的兆候が引き出される。光、すなわち、熱を伴わない光は、神格の非精霊的顕現の一つである。そして、まだ、ユランチアにおいては実際には知られていない非精霊のエネルギーの別の型がある。それはまだ認識されてはいない。

神はすべての力を制御する。神は「稲光のために道」を作った。すべてのエネルギーの回路を定めた。すべての型のエネルギーと物質の顕現の時間と方法を命じた。そして、これらのすべてのことが、いつまでも神の永遠の把握を、--楽園の下を中心とした重力支配を、--持続する。永遠の神の光とエネルギーは、その結果、雄大な回路の、すなわち、宇宙の中の宇宙を構成する星の大群の終わりのない、だが、整然たる列の周りを絶えず揺れ動く。すべての創造は、万物と生物の楽園-人格の中心を永遠に回る。

父の全能は、物質、心、精霊の3種類のエネルギーが、区別のつかないほどとても父に近いところ--万物の根源--にある絶対段階の遍在支配に関係がある。楽園のモノタでも楽園の精霊でもない創造物の心は、宇宙の父には直接反応しない。神は、不完全の心に適応する--思考調整者を通してユランチアの人間と共に。

宇宙なる父は、一時的な原始の力でも、移動する力でも、変動するエネルギーでもない。父の力と英知は、宇宙のありとあらゆる緊急事態に対処するよう完全に適している。人間の経験に非常事態が発生するとき、父はそれらについてすべて見通しており、したがって、宇宙の問題に離れた態度で反応するのではなく、むしろ永遠の知恵の命令と一致して、また、無限の判断の命令と調和して反応する。外観はどうであれ、神の力は宇宙の中で盲目の力として機能してはいない。

非常時の決定がなされたと、自然法が中断されたと、誤った適合が認識されたと、そして、状況を正す努力がなされたと見える状況が起こる。だが、そうではない。神についてのそのような概念は、あなたの観点の限られた範囲に、あなたの理解の有限性に、およびあなたの概観の限局される範囲にそのような概念の起源がある。神についてのそのような誤解は、あなたが、領域のより高い法の存在、父の性格の偉大さ、その属性の無限性、およびその自由な意志性の事実に関して享受する甚だしい無知によるものである。

神の精霊が内住する空間宇宙のあちこちに散在する惑星創造物は、数と体制においてほとんど無限で、知力は非常に異なり、心には限界があり、また時々粗野であり、それらの構想は縮小され、局所化されるので、父の無限の属性について適切に表現し、同時にこれらの創造された知力あるものにとり少しも理解できない法律の一般化を構築することはほとんど不可能である。したがって、創造物であるあなたにとって、全能の創造者の行為の多くは、任意で、離れた、しかもしばしば無情で冷酷に思える。しかし、再度私は、これが本当でないことをあなたに断言する。神の行いはすべて、目的をもち、理に適ったおり、賢明で、親切であり、また、常に特定のもの、特定の人種、特定の惑星に対しての全体の幸福に対して永遠に思いやりがあるわけではない。特定の宇宙に対してでさえも。しかし、それらは、最も低いものから最も高いものまでの関係するすべての福祉と最善のためである。部分的繁栄は、新紀元においては、たまに全体的繁栄とは異なって見えるかもしれない。永遠の循環においては、そのような明白な違いは実在しない。

我々は全員が、神の家族の一員であり、そのために、時として家族規律を共有しなければならない。我々を妨害し、混乱させる神の行為の多くは、すべての知恵の決定と最終決定の結果である。すべての知恵の決定と最終決定は、結合の活動者が無限の心の絶対確実な意志の選択を実行するために、すなわち、人格の見渡し、構想、および気遣いが広大かつ広範囲にわたるすべての創造の最高かつ永遠の福祉を迎え入れる完全な人格の決定を実施するために権限を与える。

その結果、それは、あなたの繋がりのない、部分的で、有限で、粗野の、そして、非常に実利主義的観点と、あなたの性質に固有の限界が、あなたには押しつぶすそのような残酷さを孕んでいるように見える、そして、あなたの仲間の創造物の安らぎと福祉への、惑星の幸福と個人の繁栄へのそのような全くの無関心によって特徴付けられるように思える神性行為の多くの英知と思いやりをあなたが、見たり、理解したり、あるいは、知ることができないそのような不利な条件の構成要素となる。あなたが神の動機を誤解し、目的を曲解しているということ、それは、人間の視覚の限界のためであり、それは、あなたの限界的理解と制限的理解のためである。しかし、進化の世界においては宇宙なる父の人格的行為ではない多くのことが起こる。

神性の全能は、神の人格の他の属性と完全に調整されている。通常、神の力は、その宇宙の精霊的な顕現が3種類の状態か状況によって制限されているに過ぎない。

1. 神の性質による、特にその無限の愛による、真と美と善による。

2. 神の意志による、慈悲の聖職活動と宇宙の人格との父親らしい関係による。

3. 神の法による、永遠の楽園の三位一体の公正と正義による。

神は力においては限りなく、性質においては神性で、意志においては確定的で、属性においては無限で、英知においては永遠で、現実においては絶対である。しかし、宇宙なる父のこれらのすべての特性は、神格に統一されており、楽園の三位一体と三位一体の永遠なる息子に普遍的に明示されている。そうでなければ、楽園とハヴォーナの中央の宇宙の外においては、神に属するすべては、究極の究極にいたる臨場によって条件づけられ、また、神格、普遍、無条件の実存的3絶対者よって調整される。神の臨場は、それが神の意志というものであるのでこのように制限される。

「神はすべてを知っている。」神性の心は、すべての創造の考えを承知しており、それに精通している。出来事に関しての知識は普遍的で、完全である。神から出て行く神性の存在体は神の一部である。また、「雲のつりあいをとる」神は、また「完全な知識をもつ。」「主の目はどこにでもある。」取るに足りない雀について「そのうちの一羽も私の父が知らずして地に落ちることはない、」そして、また、「あなたの頭の毛までも数えられている。」「神は星の数を教える、それらのすべてをそれぞれの名前で呼ぶ。」とあなたの偉大な教師は言った。

宇宙なる父は、すべての宇宙で唯一実際に空間の星と惑星の数を知る人格である。あらゆる宇宙のすべての世界は絶えず神の意識の中にある。また、神は言う。「私は民の悩みを確かに見、民の叫びを聞き、そして、それらの痛みを知っている。」「主は天から見られるので。主は人のすべての息子を見る。その住まいの場所から、地に住むすべてのものに目を注がれる。」すべての創造物の子は、心から言うかもしれない。「神は私が行く道を知っており、私を試されたあと、私は金のように出て来るであろう。」「神は我々の座るのも立つのも知っている。神ははるか彼方で我々の考えを分かっており、我々のすべてのやり方に詳しい。」「我々が共にしなければならない方の目には万事が裸であり、露にあらわにされている。」そして、「神はあなたの成り立ちを知っている」と理解するのは、すべての人間にとっての本当の安らぎのはずである。神は、あなたが塵であることを知っている。」イェススは、生きている神について話し、「あなたの父は、あなたが尋ねる前にさえ、あなたが何を必要としているかを知っている。」と、言った。

神にはすべてのことを知る無限の力がある。神の意識は宇宙全般にわたる。神の人格回路は、すべての人格を取り囲み、下位の創造物に関する知識でさえ、間接的には神性なる息子の下降する系列を通し、直接的には内住の思考調整者を通して補われる。その上、無限の精霊は、絶えずいたる所に臨場する。

我々は、神が罪に基づく事件をあらかじめ知ることを選ぶか否かについては全体的には確信していない。しかし、もし神が我が子らの自由意志ををあらかじめ知るとしても、そのような先見は子らの自由を少しも無効にはしない。1つの事が確かである。神は決して驚かない。

全能は、することができないことを、神らしくない行為をする力を含意しない。また全知は、知ることができないことを知ることを含意しない。しかし、そのような声明を有限の心に分かりやすくすることは、ほとんどできない。創造物は、創造者の意志の範囲と限界をほとんど理解することができない。

宇宙創造の際のその宇宙への自分自身の連続的贈与は、神格の主たる人格に住み、休息し続けるとき、力の可能性、あるいは知恵の蓄えを決して減少させない。父は、楽園の息子への、下位的創造への、およびそのさまざまの創造物への自分自身の無制限の贈与の結果として原始力、知恵、愛の可能性において、自身の所有物の何かを決して減少させたりはしなかったし、その栄光ある人格のいかなる属性も奪われはしなかった。

あらゆる新しい宇宙の創造は、重力の新たな調整を必要とする。しかし、たとえ創造が、物質的創造が制限なくして存在するために、無期限に、永遠に、無限にさえ続いたとしても、やがて、楽園の小島において休息する力の支配と調整は、そのような無限の宇宙の統制、支配、調整に依然として等しいと、また適切であると分かるであろう。また、広大な宇宙への限りない原始力と力のこの贈与後に、無限者には同程度の原始力とエネルギーが加えられるであろう。無条件絶対者は、まだ減少されているであろう。神は、まるで原始力、エネルギー、力が、幾つもの宇宙への贈与のために一度も注ぎ出されたことがないかのようにまだ同じ無限の可能性を所有するであろう。

英知についてもそうである。心が領域の考えに自由に行き渡るという事実は、決して神性の英知からの中心的根源を貧困にするものではない。宇宙の数が増えるにつれ、領域の存在体の数は、理解の限界範囲にまで増え、もし心が、上位と下位の状況にあるこれらの存在体に果てしなく贈与され続けると、まだ神の中央人格は、同じ永遠の、無限の、そして、すべてに賢明な心を抱き続けるであろう。

あなたの世界と他の世界の男性と女性に内住するために精霊の使者を送り込むという事実は、神性かつ全能の精霊人格として作用する神の能力を少したりとも減じるものではない。そして、神が送り出すことができ、送り出すかもしれないそのような精霊訓戒者の範囲あるいは数にはもちろん何の限界もない。創造物へ自分を差し出すこの付与は、神に贈与されたこれらの人間のための進歩的で連続的生命の限りない、ほとんど考えも及ばない未来の可能性を創造する。そして、聖職の役目を果たすこれらの精霊の存在体としてのこの惜しみない自分自身の分配は、全賢、全知、全能の父の人格に休息する真実と知識の知恵と完全性を少しも減少させるものではない。

時間の人間には未来がある、ところが、神は永遠に居住する。私は、神格のまさに住居近くの出身であるけれども、あえて神性の多くの属性の無限に関する理解を完全に話すことはできない。唯一心の無限だけが、存在の無限と動作の永遠を完全に理解することができる。

人間には天の父の無限をとても知ることはできない。有限の心はそのような絶対真理、あるいは事実を通して考えることができない。しかし、この同じ有限の人間は、実際にそのような無限の父の愛の完全で非減少の衝撃を感じる--文字通り経験する--ことができる。経験の質が無制限であり、そのような経験量は、人間の精霊的感受性の潜在力により、また、代わりに父を愛する関連能力により厳密に制限されるが、とはいえ、そのような愛には本当に経験が可能である。

無限の資質についての有限の評価は、人間が神の姿に作られている--無限の断片が人間の内側に生きている—という事実のために、創造物の論理的には限られた能力をはるかに超える。したがって、人の神への最も近くて最も親愛な接近は、愛により、また愛を通してである。神は愛であるが故に。そして、そのような特異な関係のすべてが、宇宙社会学の実際の経験、創造者-創造物間の関係である。—父-子の間の愛情。

宇宙なる父は、後ハヴォーナ創造との接触において、直接通達により自身の無限の力と最終的権威を行使するのではなく、むしろ息子と息子らの下位の人格を通して行使する。神は自分の自由意志でのこのすべてをする。そして、もし機会が生じるならば、もしそれが神性の心の選択になるならば、委任されるありとあらゆる力は、直接に方向づけられることができるであろう。しかし、原則として、そのような行為は、神性の信頼を満たすことを委任された人格の失敗の結果行われるに過ぎない。こうしたときに、そのような時や不履行に直面の際に、また、神性の力と可能性の保留の限界内において、父は、独自に、しかも、自身の選択による命令に合致して行動する。そして、その選択は常に変わることのない完全性と無限の英知のひとつである。

父は息子を介し統治する。父の広大な領域の進化する球体の目標を方向づける惑星王子に終わる連綿と下方に続く支配者の系統が、宇宙組織全体にはある。次のように主張するのは単なる詩的表現ではない。「地とそれに満ちているものとは主のものである。」「神は王を廃し、王を立てる。」「いと高きものは人の王国を支配する。」

宇宙なる父は、人の心の問題においていつも意のままにできるわけではない。しかし、惑星の行政と目標において、神性の計画は広がっている。英知と愛の永遠の目的は勝利を収める。

イェススは言った。「それらを私に与えてくださった私の父は、すべてにまさるのである。そして、だれも私の父の手からそれらをむしり取ることはできない。」あなたが、神の無限に近い創造の多種多様の働きを垣間見たり、その驚異的広大さを眺めるとき、あなたは神の卓越性の概念にためらうかもしれないが、万物の楽園の中心に永遠にしっかりと王位につく、また、すべての知的な存在体の慈悲深い父としての神の受け入れにあなたは失敗すべきではない。「すべての上に、また、すべての中にいる唯一の神、すべての父」しかおらず、「そして、その方は万物よりも先にあり、万物はその方にあって成り立っている。」

生命の不確実性と生存の有為転変は、いかなる方法によっても神の普遍の主権の概念に矛盾することはない。すべての進化の創造物の生命は、ある必然性に悩まされる。次のことを考えなさい。

1. 勇気--強い性格--は、望ましいか。ならば、人は苦難に立ち向かうこと、そして、失望に反応することを必要とする環境で育てられなければならない。

2. 利他主義--仲間への奉仕—は、望ましいか。ならば、人生経験は社会的不平等の状況に遭遇に備えなければならない。

3. 望み--信用の壮大さ--は、望ましいか。ならば、人間の生存は絶えず不安感と再発する不確実性に直面しなければならない。

4. 信仰--最高の主張による人間の思考--は望ましいか。ならば、常に、人の心が信じることができるよりも少なく知るその厄介な立場にいる心自身を見つけなければならない。

5. 真実の愛とそれが導くところはどこへでも行く意欲は望ましいか。ならば、人はいつも誤りがあり、虚偽が可能である世界に成長しなければならない。

6. 理想主義—神性の迫りくる概念--は、望ましいか。ならば、人は相対的な善と美の環境において、つまり、より良いものへの抑えきれない努力を刺激する環境において奮闘しなければならない。

7. 忠誠心--最も高い義務に対しての専念--は望ましいか。ならば、人は裏切りと放棄の可能性の真っ只中で存続しなければならない。義務に対する専念の果敢さは言外の不履行の危険性の中にある。

8. 無私--無私無欲の精神--は、望ましいか。ならば、人間は認識と名誉のために不可避の自己の絶え間のない怒号に直面して生きなければならない。人は、見捨てる何らの自己生命がないならば、活発に神性生命を選ぶことはできないであろう。もし対比により善を高め、また、識別するための何の潜在的悪がないならば、人は、決して正義を掴むことはできないであろう。

9. 喜び--幸福の満足感--は、望ましいか。それならば、人は痛みの代替物と苦しみの公算が、遍在の、経験上の可能性としてある世界に住まなければならない。

宇宙全体にわたり、あらゆる部隊が全体の一部と見なされる。部分の生存は、全体の計画と目的との協力に、つまり父の神性意志をするという心からの願望と完全な意欲に依存している。誤り(賢明でない判断の可能性)のない唯一の進化世界は、知性に自由のない世界であろう。ハヴォーナ宇宙には完全な住民のいる10億の完全な世界があるが、進化する人間が、自由であるならば、誤りを犯しやすいに違いない。自由で未経験な知性は、最初は一様に賢明であるはずがない。誤った判断(邪悪)の可能性は、人間の意志が周到な背徳判断を意識的に是認したり、故意に迎え入れるときにのみ、罪になる。

真、美、善の完全な鑑賞眼は、神性宇宙の完全性に本来備わっている。ハヴォーナ世界の住民は、刺激のための選択としての相対的価値水準の可能性を必要としない。そのような完全な存在体は、すべての対照的かつ思考を強いる道徳的状況にないとき、善を識別し、選ぶことができる。しかし、そのようなすべての完全な存在体は、特性と精霊的状態に関しては、存在事実の理由から彼らは今そうあるのである。それらの存在体は、自身に固有の状態の範囲内においてのみ経験的に前進をもたらした。必滅の人間は、自身の信仰と望みにより上昇候補としての自身の地位さえ獲得する。人間の心が把握し、人間の魂が獲得するところの神性であるすべてのものは、体験的到達である。それは、個人的な経験の現実であり、それゆえ、ハヴォーナの間違いのない人格の内在する善と正義とは対照的に、独自の所有物である。

ハヴォーナの創造物は、生来勇敢であるが、人間の意味する勇敢ではない。それらは、本質的に親切で思いやりがあるが、人間的にはとても愛他的ではない。それらは、快い未来を期待しているが、進化する不確実な球体の信じて疑わない人間の洗練された手段においては前途有望ではない。ハヴォーナの創造物は、宇宙の安定性を信じるが、それによって動物の状態から楽園の入り口へと登るその救いとなる信仰には全く不案内な者たちである。それらは、真実が好きであるが、その魂を救っている資質については何も知らない。それらは、理想主義者であるが、そのように生まれたのである。それらは、そのような恍惚をそう快な選択によっては全く知りえるないのである。ハヴォーナの創造物は忠誠であるが、不履行への誘惑に直面して、義務への心からの、また理にかなった献身からの身震いを一度も経験したことがなかった。寡欲であるが、好戦的な自己の堂々たる征服によるそのような経験段階に決して達しなかった。それらは、喜びを味わいはするが、痛みの可能性からの快楽逃避の甘味を理解はしない。

宇宙なる父は、神性の無私無欲、つまり完璧な寛大さゆえに、権威をあきらめ、力を委譲するが、依然として首位である。普遍の領域の情況の強力な梃の上に宇宙なる父の手がのっている。宇宙なる父は、すべての最終的決定を留保してきたし、また、広げられ、渦巻き、絶えず旋回している創造の福祉と目標に対し挑戦し難い権威をもって自己の永遠の目的である拒否のための全能の笏を的確に行使する。

神の主権には制限がない。それはすべての創造の根本的事実である。宇宙は必然的なものではなかった。宇宙は偶然でもなく、独立的存在でもない。宇宙は、創造の作業結果であり、したがって、完全に創造者の意志に従属している。神の意志は、神性真理、生ける愛である。したがって、完成しつつある進化的宇宙の創造は、善--神性への接近により、潜在的悪--神性からの遠さによって特徴づけられる。

すべての宗教哲学は、遅かれ早かれ、統一された普遍的規則の、一神の概念に到る。宇宙の原因が、宇宙の結果より低いはずがない。宇宙生命の流れと宇宙心の源は、それらの顕現の段階を超えているに違いない。人間の心は、あくまでも下方の存在系列の観点からは説明することはできない。人の心は、本当に、思考と目的ある意志のより高い系列の現実を認めることによってのみ真に理解されることができる。必滅の存在体としての人間は、宇宙なる父の現実が認められない限り説明しがたい。

機械学的な哲学者は、普遍的で主権の意志についての考えを、つまり、深く畏敬する宇宙法の綿密な仕上げにおけるその活動のまさにその主権の意志についての考えを拒絶することを公言する。機械論者が自動で自明であるそのような法を着想するとき、何と意図されない敬意を払っていることか。

内住する思考調整者の概念を除いては、神を人間化するということは大きな失態であるが、それでさえ第一の偉大な根源と中枢についての考えを完全に機械化するほどには愚かではない。

楽園の父は苦しむか。私は知らない。人間がするように、創造者たる息子は、間違いなく苦しむことができるし、時として苦しむ。永遠なる息子と無限の精霊は、変更された意味に悩む。私は、宇宙なる父は苦しむと考えるものの、どのようにかは理解できない。おそらくは、人格回路を通じて、または、思考調整者と宇宙なる父の永遠の性質の他の贈与の人格を通して。宇宙なる父は、「あなたのすべての苦悩に、私は苦しめられる。」と人類について言った。宇宙なる父は父親らしく、同情的な理解を確かに経験する。宇宙なる父は本当に苦しむかもしれないが、私はその本質を理解はしない。

宇宙の中の宇宙の無限と永遠の支配者は、力、型、エネルギー、過程、原型、原理、臨場、それに理想化された現実である。しかし、彼は、それ以上である。彼は人格的である。彼は主権の意志を行使し、神性の自意識を経験し、創造的な心の命令を実行し、永遠の目的実現の満足感を追求し、自分の宇宙の子供らへの父の愛と情愛を表す。そして、父のこれらのすべての、より人格的な特色は、あなたの創造者たる息子であるマイケルの贈与の生涯において、肉体を与えられユランチアにいた間に、明らかにされたようにそれらを観測することでより解釈することができる。

父なる神は人を愛している。息子なる神は人に仕える。精霊なる神は、精霊なる神の恩寵の聖職活動を通しての息子なる神に定められた方法により宇宙の子供らを父なる神を見つけるための上昇し続ける冒険へと奮い立たせる。

[宇宙なる父の顕示の提示に割り当てられた神性顧問である私は、神格属性についてのこの声明を推進してきた。]

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